土地の記憶/人の記憶
―古巻和芳のサイトスペシフィック・アートをめぐって   奈良女子大学 山崎明子(視覚文化論)

   古巻和芳さんの作品をあえて言葉にするなら、記憶を呼び起こし受け止めるアートだと思っている。特に、私は彼の2007年以降のサイトスペシフィック(*)な作品を拝見して、土地やそこに住まう人々の記憶と向き合うことの意味を常に考えさせられてきた。
   人はたくさんの記憶を抱え込んで生きている。悲しみや喜び、甘酸っぱい記憶や苦々しい記憶、それらはそれぞれの人の別々の人生の上にある。誰もが違う記憶を持って生きているのに、ある瞬間別々の記憶が交差することがある。
   アートはしばしばこうした記憶の交差の瞬間を生む。ある作品を前にして体が震えるような感動や言葉にならない感覚を覚えるのは、その表象が鑑賞者の記憶の琴線に触れ、見知らぬ誰かとその震えを共有するからだと思う。もし仮に「良いアート」というものがあるのなら、それは人が生きていく上でやむを得ず抱え込んだ様々な感情や記憶を引き出し、それを受け止め、行き場を指し示すものではないか。記憶に触れるのは難しい。それは時に暴力にもなる。また触れることさえできないこともある。アートが持つ危険な力は、人の心を揺り動かす強い力にもなり、アーティストたちはそのギリギリの表現を常に試みている。


*特定の場所に存在するために制作された美術作品

「掃き清められた余白から」(2007年 神戸ビエンナーレ) 古巻和芳+あさうみまゆみ+夜閒工房

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 古巻さんの作品との出会いは偶然で、フラッと神戸ビエンナーレを訪れた時だった。会場内ではそれなりに面白い作品もあったが心に響く感覚はなかった。あの時私は、今いる場所が「神戸」であることに強くこだわって作品を見ていた。なぜなら、祖父母や父が育った神戸は、私が住んだことのない空想の故郷だったからである。その空想の故郷は1995年にあの震災に見舞われた。
 私がその光景をみたのはテレビの中継で、町の様子をヘリコプター中継のまなざしから見ていた自分は間違いなく傍観者であった。揺れも熱さも寒さも感じない、臭いも痛みも感じないテレビの映像は、眼下で今まさに生きている人たちの日常の崩壊を伝えつつも、騒々しいナレーションと映像によって膨大な傍観者を生み出すだけだったように思う。
 震災から12年を経て訪れた神戸は、あの報道の映像が嘘だったかのように美しく再生していた。あの震災が嘘だったと思い込むことはとても簡単だと思った。しかし、私はあの日の映像から受けたショックが忘れられず、また傍観者であり続けた自分の後ろめたさもあり、震災の痕跡を街から感じようとしていたように思う。

  震災が起こったことは誰もが記憶しているのに、町は震災を忘れようとしているように感じられた。ビエンナーレ会場には「普通の日常」や「普通のアート」があふれ、ここは「震災に遭った神戸」ではなく「アート空間としての神戸」のように見えた。いくつもの同じサイズのコンテナが並ぶ中、偶然入ったコンテナが「掃き清められた余白から」だった。
 コンテナに入ると、まるで昭和40年代くらいの時代設定に見える小さな和室があった。文机、座布団、プラスティックの時計・・・、かつて高度経済成長期にたくさんあった小さな家に上がったようである。躊躇なくくつろいでそこに上がったものの、行先は一つしかない。和室の奥の引き戸を開けなければならないのだ。引き戸の向こうに広がったのは、思いのほか広い暗い空間で、真ん中には白い山がある。近づいてみるとそれが「ガレキ」だとわかる。真っ白なセルベン(*)で型どりされた「ガレキ」はモノクロ写真のように生活感を脱色され、彫刻のようでもあり、墓碑のようでもあった。今思えば遺骨のようでもあったかもしれない。
 「雑草」という植物がないのと同様に、「ガレキ」というモノも存在しない。そこにはモノが生かされてきた生活の時間軸がぷっつりと途絶えたゆえに「死」を迎え「ガレキ」となった暮らしの記憶が積まれているのだ。玉子のパックや、パソコンのキーボードなど決して土に帰ることのないはずの生活用品は、セルベンで型どりされたことにより、今にも砕け風化していくような儚さと存在を主張する重さを感じさせる。私たちのありきたりの日常と「ガレキ」は、この引き戸一枚=一瞬によって隔てられていることを思い知らされる。
 私はテレビの映像が伝えなかった「記憶」に触れた気がした。どれほどの喪失感と絶望がそこにあったのか、報道から多くの情報を得たとしても心の真芯に響くことはなかった。「掃き清められた余白から」を見たとき、震えるような感覚に襲われ、初めて「痛い」と思った。この痛みを感じないまま過ごしてきた罪悪感から救われるようにも思えた。
 後に古巻さんが「醜い作品をお見せして・・・」と語ったのが今でも忘れられない。共有された負の記憶を表現していくことは勇気のいることである。負の記憶とは思い出したくない過去であり、触れられたくない記憶でもある。そして二度と経験したくないということは、「再現/表象―representation」の拒絶でもある。でも、他者では決してそれを表現できない。土地とそこに住まう人の記憶に寄り添うことで、まなざしを揺さぶられ、一瞬で「記憶」への想像力を掻き立てられ、祈りの道へと誘われたのは私だけではあるまい。

*セルベン:不良磁器を粉砕して再生し粒度調整した成形素材。焼成することによって、再び磁器状に固まる。

「繭の家-養蚕プロジェクト」(2006年~2011年 大地の芸術祭) 古巻和芳+夜閒工房

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 2009年の夏、越後妻有の大地の芸術祭で「繭の家」を訪れた。美しい山と棚田、細い道を入っていった先にある蓬平という集落に、小さな「繭の家」はあった。かつて日本各地に養蚕地があり、製糸、機織りの技術を持つ人たちがいた。地方の養蚕地と絹の集積地である八王子や横浜へと結ばれた道が発達し、養蚕はつい百年前までの日本社会にとって暮らしと密接に関わる文化であった。この集落もまた繭を育てた記憶を持つ。

 今は誰も住んでいないその家の一階には、養蚕に使用された道具類、二階には作品が展示されていた。薄暗い二階にはこの土地と絹を結ぶ三つの表象があった。
 一つ目は蚕の「生」を音と光で表現した「夜半の雨音」。養蚕を経験した人は誰もが聴く桑を食む音、それはよく雨音のようだと言われる。成長する蚕の貪欲な生命力の証であり、それは養蚕家にとって蚕が順調に育っている安心の音でもあった。この音に反応して光る繭は、まるで生きているかのようである。
 二つ目は、蚕が作り出す美しい白と楕円の造形を素材に、放物線を描くオブジェ「空に放つ」であった。養蚕は蚕の命と引き換えに絹糸を採る行為である。養蚕が産業として成立していた時代には、蚕の命は人間にとって重い意味を持たなかったが、今を生きる私たちにとっては、この作品が失われた命へのオマージュであるように読み取れる。と同時に、白い繭が描き出す連続した曲線から餅花を思った人も多いのではないだろうか。日本各地で小正月に行われるどんど焼きなどでは、柳の枝に白い餅を繭の形に丸めた「まゆ玉」を刺し、だるまや松飾りを燃やした燃えさしで炙って食べる。無病息災を祈る民間行事で地域によって異なることもあるだろう。繭の造形は私たちの暮らしの中で意味のあるモチーフだったのだ。
 最後に一番興味深かったのは、小さな箱を覗き込む作品「雲の切れ間から」。覗くとそこには真っ白な雪が降り積もるこの集落があった。点在する家、雪に覆われた道や棚田、もちろんこの家もある。亡くなられたこの家の主の眼差しを作品化したものである。この集落に足を踏み入れ、家の中で箱を覗き、私たちはこの集落を一望する、その入れ子状の眼差しの交差は、この家の記憶と鑑賞者の眼差しをシンクロさせていく力を持つ。
 古巻さんは、この土地や家の歴史・記憶と向き合うなかで、「繭」にインスパイアされたのだろう。そこから引き出された表象は、蚕の生命力の賛美、繭を作り終えた蚕への哀悼、そしてこの集落で生きた家主との眼差しの共有によるものだ。
 この作品を通して、他者の記憶と向き合う展開についても見せてもらったように思う。

「巣立ちの部屋」(2010年 西宮船坂ビエンナーレ)  古巻和芳+TeN+井上真喜+夜閒工房

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 西宮船坂は、兵庫県の西宮駅から北に向かって山の中に入った地域である。バスで30分ほど行くと、西宮駅周辺の都会的な雰囲気からは想像もできないような里山の風景が広がり、そこは空気まで違うように感じられた。
 この船坂のビエンナーレは、行政主導型ではなく、地域で暮らす人たちが地域の人々のコミュニケーションの回復や船坂の自然や文化を多くの人に見てもらうことを目的に企画された。この日本において、地方自治体や企業の大きなバックアップなしにイベントを開催することは、現実的にはかなり難しいはずだが、このビエンナーレは小規模ながらもイベントの目的を明確化し、地の利を生かし、主催者とアーティストの両方からそれぞれが持つ「資源」を持ち寄って「協力」した素晴らしいイベントだった。アーティストたちはほとんど手弁当だったというが、その中の一組が古巻さんたちだった。
 「巣立ちの部屋」は、その年の春に閉校になった船坂小学校の一つの教室を使った作品である。
 その教室に向かって廊下を歩いていくと、すりガラスの窓に先生と子どもたちの影が映っているのが見える。「音楽」の時間なのだろう、笑い声とともに「野ばら」や「埴生の宿」が聞こえてくる。小学校で歌ったのかどうか自分の記憶は定かではないのだが、どこか懐かしい曲ばかりである。
 おそらく「影」が人を引き寄せるのだろう。この楽しげな教室に誰がいるのか、そっとドアを開けたくなる。ドアを開いた途端、歌が途絶え、先生と子どもたちの影は消え去り、教室の中には白い静かな世界が広がる。そこは、白い羽根やシュレッドされたり美しく切り抜かれたりした白い紙が敷き詰められた教室で、船坂の美しい景色へと開け放たれた窓には白いカーテンが風でゆれている。あの子どもたちは巣立ったのだ。
 私たちはそこにいたはずの人=影とその歌声を失い、ここが「巣立ちの部屋」だと認識する。廃校になった船坂小学校も他の小学校と同じようにこの空間で子どもたちを巣立たせてきた。誰しも母校の前に立てば、良くも悪くもその時に抱いていた感情と向き合わざるを得ず、「教室」とはまさに子供時代の記憶の集積によって成り立っている。きっとそれぞれ「教室」は違う作りや雰囲気だったりするだろうが、そこに子どもがいて、声が聞こえてくれば、どんな年齢の人も自己の記憶の中に棲みつく感情を引きずり出されてしまう。
 嫌な記憶もあっただろう。でも、私はこの空間が外界に開け放たれ、白く埋め尽くされていたことで、自らの記憶が浄化されたように感じられた。あんなにも嫌だった教室は、こんなにも美しかったのだ。

「花の舟」(2011年 HANARART)

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 HANARARTは奈良県全域で散発的に開催された町屋を使ったアートイベントで、2011年から始まった。その初回の開催に合わせて古巻さんが出品したのが「花の舟」だった。町屋という人がかつて暮らした空間を、アートで現在に再構成して見せる「町屋アート」は、これまでの古巻さんの表現手法からみれば絶好の空間かもしれない。
 とはいえ人が暮らしていたからこそ難しい課題も生じる。町屋は美術館やギャラリーではない。土地や家屋という空間が持つ記憶は、嫌が応にもそのトポスを支配する。古巻さんが挑んだのは奈良県大和郡山市にある旧川本邸という近代の遊郭であり、その空間が持つ記憶の重層性や土地との関係性は複雑であった。
 かつて日本の各地に遊郭があった。1956年に売春防止法が施行されて以降、これらの遊郭は廃止され独特な建造物は売却・解体されたり、廃墟のように残されたり、転用されたりしてきた。大和郡山の旧川本邸は、木造三階建てで細かい格子窓を持つ遊郭独特の建築である。華やいだ歴史を持つ建築であっても社会の文脈が変われば忌まわしい記憶として読み替えられる。今の私たちが生きる社会で、この建物を残すことは「遊郭があったネガティブな町」という意味も持ち得る。建築としての希少性とその建築が持つ記憶は必ずしも一致はしない。
 遊郭の記憶という、現在では想像することが困難な世界に私たちはどのようにアクセスすればよいのだろう。正負は別にして歴史的遺産として単に保存するだけではなく、そこで生きた人たち―遊女・客・経営者―の記憶を掬い上げ可能な限り想像をめぐらせ、今を生きる自分と切り離さないようにすることができないだろうか。そう、「歴史」は地続きなのだから。
 「花の舟」は、旧川本邸の一室を使いこの建物独特の格子状の障子をスクリーンにして映像を投射した作品であった。日だまりに映る花や木々の葉の影から花びらが静かに、そしてゆっくりと舞い上がる様子が映し出される。ここがもし遊郭でなければ深く意味を読み込むことはないかもしれない。しかし静かに空に舞い上がる花びらにこの空間で意味が生じないわけはない。「花/華」にもたとえられた遊女たちの人生は散りゆく儚さとして表現されがちだが、この空間で散った多くの人生があるのであれば、その記憶に寄り添うことで掬い上げていくことができるだろう。舞い上がるイメージは「花/華」たちを解き放ち儚い人生へのオマージュであることを読み取ることができよう。

「養蚕プロジェクト/光をつむぐ 祈りをつなぐ」(2012年 大地の芸術祭)  古巻和芳+夜閒工房

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 越後妻有の「繭の家」が倒壊したという悲しいお知らせをいただいたのは、2011年の2月のことだった。日本有数の豪雪地帯として知られる越後妻有でもこの冬の雪害はかなりひどかったとのこと。古い家屋で、今は人が住まない家を維持していくことの難しさを思い知るとともに、悲しみと切なさを感じた。
 2012年の夏に同じ集落内の蔵で公開された「養蚕プロジェクト」では、新たな作品「光をつむぐ 祈りをつなぐ」があった。小さな暗い空間の中に4本の柱が設置されていた。来場者は煮た繭から絹を採りながら、この4本柱の周囲をゆっくりと歩き、柱と柱の間に絹の壁を作り出していくという参加型アートであった。
    暗い空間の中では細い採りたての絹糸はほとんど見えない。指で感じる糸の感触を頼りにゆっくりと歩かなければならない。それはあたかも巡礼のようであり、祈りの姿のようでもある。
 以前、縫う行為と祈りの行為の類似性について論じたことがあるが、それは両者の身体的類似性から様々な隠喩関係が生まれ多様な表象へと転化されてきた歴史とも深く関わっていることを示したものだった。来場者たちは、糸を柱に巻くだけではなく、その場でその行為を行いつつ身体的には祈りに通ずる経験をしていく。不思議なほど神聖な感覚を持った人もいたのではないだろうか。蚕の命を今この手で糸にして新たな造形を作り出していく場の参加者となる-それは農業としての養蚕や産業としての製糸という労働が、経済という仕組みの中で意味を持たされてきたのとは異なり、しかしその歴史をも含みつつ、光輝く絹の壁を作るという美への深い信仰に支えられた祈り以外のなにものでもないと感じられた。
 祈りの先にあるものは何だろう。
 多くの人の手によって巻かれた絹糸は、繭の姿からは想像もできない美しさを見せた。蚕の命への哀悼であるかに見えた祈りは、同時に絹の輝きを得ることへの希求であり、私たちは祈る行為の果てに小さな奇跡を見たのだと思う。これまで養蚕というプロセスの中に必然的に存在していたはずのその奇跡は、過去の多くのアーティストたちが願ってやまなかった「美」の生成と同じだったのだと感じさせられた。

「絹の国の母たち」 (2013年 あしやシューレ[兵庫] 個展)

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 現在、ギャラリーあしやシューレで開催されている「古巻和芳展 絹の国の母たち」を初日に拝見した。
古巻さんの作品はこの数年ずっと見せていただいているが、いつもその物語の豊かさと造形の美しさ、そして見る者に対して語りかける力の強さに圧倒される。今回は、ギャラリーでの個展ということで、まさに古巻さんの世界観に満たされた空間となっていた。
決して広い空間ではないが、作品は全部で5つ。そしてキーワードは、絹と女性と言っていいのではないだろうか。
「絹の国のトルソ」は、一体ずつ異なる曲線を持つ木製の円柱に漆を塗り(塗ってないものもある)、かつて絹を引いた座繰機で生糸を引きながらトルソに纏わせていった作品である。艶の消された黒い漆は人の肌のようなマットな質感を持ち、生糸の艶感をしっとりと纏うようである。女性の身体を思わせるトルソは極限まで抽象化されていながらも、絹を纏うことにより生命感を持つ。
「滝」は1つの繭から引いた生糸束を天から吊るし、その流れごと床に置かれた壺に落ちていくイメージの作品。一つの生命を暗示する糸束は、繭をほぐし人の手を通して光る流れとなる。古巻さんは壺に褜(えな)壺や骨壺といった人生の隠喩を持たせようとしたようであるが、一つの繭が始まりと終わりをもち、その羽化(誕生)と死をめぐる物語を受け止める道具立てとして面白く感じられた。
「誰が袖(絹の国の花嫁)」は、彼が出会った越後妻有の女性が、50年ほど前に自分でとった糸で織った花嫁衣裳と、昨年夏の大地の芸術祭で多くの人の手によってとられた生糸で構成されたインスタレーション。50年前の日本では、すでに自分の手で婚礼衣裳を織る女性は極少数であった。産業化された絹糸業は、自己の暮らしのために糸をとるのではなく、労働を売りながら現金収入を得るという形態をとったからだ。黒い婚礼衣裳もかつての日本では当然だった。喪の色であった白が婚礼の主役になったのはさほど古い時代のことではない。一見無造作に掛けられた衣裳は、婚礼前のお披露目ではなく人が既に手を通した後の衣の風情をみせ、白い生糸の流れる様子はそれがいかに長い月日だったかを示しているように感じられる。
「梳る(絹の国の母たち)」はこの展覧会のタイトルと重なっている。白い壁の細い通路の奥に置かれた鏡台、鏡に見立てられたモニターには髪を結い、またほどく3人の女性たちが映し出される。鏡台の前に座り、そこで鏡を覗き込む時、女性たちは自分ひとりだけの時間を過ごす。先ほどの「絹の国の花嫁」が纏った衣裳を身に付けた彼女たちは、それぞれの母方の祖母の名前を用いる。鏡の奥の自己は単に今ここにいる自己ではなく、母とその母を経由した自己であるということか。この社会は家父長的社会なのに、鏡台に映る女性たちの姿は、不思議なほど母の系譜を想起させる。いかに社会が女性に対して他者へのケアやサポートを強いることが多くとも、その道具立てと空間は女性がひとりで自己と向き合うために存在していたのだと感じられる。 もし、鏡を見つめる女性そのものを映像が拾ったら、私は彼女たちを脅かす眼差し(ゲイズ)を共有してしまったのかもしれない。しかし、この作品を前にすると、むしろ私たち自身の存在が消されていくように感じられるのだ。彼女たちと鏡の間にある他者の介入を許さないような距離感は、決して梳る女性の姿を快楽の消費に供することなく私たちの存在を問うているようである。
うっかりするとフェミニ二ティを他者の目線から美化・理想化してしまいそうな物語が多い。そういう陳腐な物語に回収されないで踏み止まっていられるのは、古巻さん自身が絹とそれに関わる女性たちに向き合ってこられた時間の蓄積があるからだろう。また何よりも、作品一つ一つが女性たちの記憶をデフォルメするのではなく、削ぎ落としながら構成されていることで、世間に無数に存在する陳腐な「女の歴史」と一線を画すものになっていると思う。

「誰が袖/絹の国の母たち」(2015年 大地の芸術祭)

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 2015年夏の「大地の芸術祭」では、古巻さんたちの養蚕プロジェクトの中で新しく作り上げられた「誰が袖/絹の国の母たち」を見せていただいた。
裾をひく白絹の長い着物は白無垢だろうか。ただの白無垢ではない。いくつかの白絹が縫い寄せられている。白無垢の上には流れるようにつややかで軽い絹絲の束が配置されている。撚りをかけていない、柔らかな絹である。絹絲は、この蓬平の集落の方々が育てた繭からひいているという。波打ち輝く生絲はまるで銀髪のようにも見える。
そこに塗りの櫛や金属のコンパクトなどが置かれている。白絹の着物と生絲束は、それぞれに異なる輝き方を見せ、私はそこに時空を超えた身体性を感じずにはいられなかった。人が不在でありながら、その痕跡のようなものが生み出され、女性の身体性が強く感じさせられる。と、同時に長い時間の経過を読み取らせていく作品である。白無垢の上に目を移せば、そこにはたくさんの着物が掛けられている。「誰が袖」―誰が袖図を想起させる―の語が示すように、まるで残り香のように人の気配を感じるが、ここには誰もいないのだ。
この地域に限らず、近代の日本の農村では蚕糸業が地域を支えてきた歴史がある。養蚕は短期間に収穫できる季節労働であり、繭は厳しい自然条件の地域において貴重な現金収入を得る産物だった。選別され残った繭は、養蚕農家で真綿として使われたり、紡がれ織られたりもしてきた。養蚕も紡績も製糸も、また織りも縫いも、多くは女性たちの手によって担われてきた。生絲の輸出が激減し、各地の養蚕文化が失われて半世紀はたつだろうか。
かつての日常に存在したはずの絹を生む労働は、その周辺の文化とともに消え、絹の記憶も消えつつある。もはや養蚕は私たちの文化において無意味なものなのだろうか。
「誰が袖」が醸し出す「不在性」は、物質的不在でありながら、私たちに人の気配を感じさせる精神的存在を展示空間に作り出している。私たちは物質的必要や生命の維持のために「衣(きぬ)」や「布(きぬ)」を求め、おそらくそれとは異なる次元で「絹(きぬ)」を希求する。この不在の身体性によって私たちは「衣」や「布」ではない、「絹」のしなやかさに触れ、「絹」を愛で、「絹」に憧れた美の記憶のようなものへと誘われるのだと思う。
作品空間で私たちが不在性から感じ取る気配は、絹にまつわる無数の記憶の集積から生み出されるものであり、そこには古巻さんの記憶も含まれている。作家個人の記憶だけではなく、絹の文化を共有してきた普遍的な記憶だからこそ、それは気配となって場に立ちあがる。また現代社会において産業として消えてしまった養蚕も、地域に集積された記憶とともに新たな表象となって立ち現れる。
養蚕プロジェクトはかつて養蚕が盛んだった蓬平集落において再び繭を生産し、この地域における養蚕の意味を再生していく役割を果たしてきたと思う。私はこの作品から、人と地域から何かを奪う大きな力に抗し、人と地域に集積した記憶から新しいイメージを生む意志を読み取る。人は美しい(単に美的なものだけでなく)ものなしに豊かに生きられず、また変化し続ける社会の中で過去を愛おしむ記憶なしにも生きられない。そして、そうした人が生きるために不可欠なイメージからしか、必要な未来を夢見ることができないのかもしれない。
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 アートは自由に見ていい。見る人が触発される-それがアーティストへの共感であれ、反発であれ、作品を通して自分の内にあるものと向き合うひとときを大切にできればいいと私は思う。より多くの人の心に触れる作品もあれば、人の心のより深い部分に触れる作品もある。古巻さんの作品は、まさに後者である・・・。